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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

呪縛から解き放たれるとき【(半分)読書感想文】

こんばんは。にゃんちーです。

引っ越し作業でヘロヘロで、インプットする時間も、ぼーっと考える時間もないままに、今、書いています。

書きたい気持ちはあるのに、ネタがない!というので、少しばかり大好きな人との会話からもらったヒントを頼りにつれづれと。

まとまりがなかったら、ごめんにゃさい。

 

 

タイトルのインパクト

岩井俊二の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という映画を知っていますか?

 

ちなみに、私は岩井俊二の映画が好きなのでDVDを相当持っているにゃ。

それでね。

この映画のタイトルがあまりにインパクトが強かったから、映画を観ていないと彼が行っていたのね。

え?笑 インパクト強かったのに、見てないの!?って思うでしょ。

むしろなんで観てないのか聞いてみた。

彼の答えはこうだった。

打ち上げ花火を下から見るのか、横からみるのか、っていうタイトルを見ただけで、自分のものの見方がかわった。そのくらい衝撃的だった。

 

彼の言っている事は正解で、たった50分の映画で、「ものの見方」について、あるいは「思い込み」について随所で触れてくる。

たった50分と書いたけれど、それだけを言うために50分も映画にしたのに、映画のタイトルだけでおおよそ伝わってしまうんだなって、彼の話を聞いてて思ったのね。

そう考えると、タイトルって凄い凝縮された言葉なんだろうなと。

 

 

私の場合は、タイトル買いした本がある。

『愛がいない部屋』 石田衣良 集英社文庫


石田衣良の短編集。最後の短編小説が「愛がいない部屋」だ。

これは本当にジャケ買いならぬ、タイトル買いだった。

 

「愛」って、ある・ない、というでしょ?

いない、は人に対して使う言葉だよね。

組み合わせとしては違和感があるのだけれど、その違和感が妙にしっくりする。

 

是非まだこの本を読んでいない人は、想像してみてほしい。

実際の中身は違うかもしれない。

『愛がいない部屋』という、このタイトルを見ただけで、どんなことを想像しますか??

 

部屋にそこに誰かは居るのに、「愛」する人はいない部屋なのだろうか。

それとも「愛」してくれる人が居ないという意味なのだろうか。両方の意味だったら、もう家庭内別居とか想像しそうなタイトルだよね。

 

でも、もしかしたら、「愛」なんてものは目に見えなくて、もちろん触れることも出来ない。そういった意味では「愛」というのは存在を確かめることができない、ひどく抽象的な、偶像にも近いものだと仮定すると、諦めにも似た気持ちで「愛」がいない、という言葉になるのかもしれない。

 

 

タイトル それは要約力もしくは凝縮力

この話をしていて、タイトルという至極短い言葉には、2つの種類があると気が付いたのだ。

 

一つ目は、言いたいことをぎゅぎゅっと要約して的確に表現したもの。Twitterなんかもそうだとおもう。いかに140字に纏め上げるかだから。

岩井俊二の映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」というタイトルは、打ち上げ花火に絞って映画として描いているけれど、言いたいことがそれ以上でも以下でもなく、受け手が的確に想像できるように表現されているタイトルだと言えると思うの。

 

二つ目は、言いたいことを想像させるために、色んな要素と思いを凝縮して表現したもの。

私がタイトル買いした、石田衣良の『愛がいない部屋』というのは、あまりに凝縮されている言葉だからこそ生まれる想像性に富んだ(色んな可能性をほのめかす、ともいえる)タイトル、だと思う。

 

どちらも心に突き刺さるというか、グッときたタイトルなのだけれど、実はものの見方をタイトルという限られた短い言葉でもって、正反対に表現しているのだ。

 

 

呪縛から解き放たれるとき

呪縛だなんて、おどろおどろしい言葉を使っているけれど、縛りから解放される瞬間というのも実は2つあるんじゃないかと思っている。

 

一つ目は、認識した言葉から連想(想像)したものが、そのまま答えだったとき。

これは言い換えれば安心感ということになる。

さっきの岩井俊二の「打ち上げ花火は、下から見るのか?横から見るのか?」の場合、

そもそも映画の中では、まず、打ち上げ花火は球体で丸なのか、うちわの様に平べったいのかという論争が繰り広げられる。

そのうえで、いや、打ち上げ花火は丸でしょ、っていう答えに辿り着く。じゃあ丸だったら、今度は、その打ち上げ花火って、下から見てるの?横からみてるの?っていう話に変わっていく。

 

でもこれって、打ち上げ花火より下の位置から見れば、下から見ていることになるし、打ち上げ花火と同じ高さから見れば、横からみていることになる。

もっというと、打ち上げ花火よりも高い位置、ヘリにでものって優雅に上空から見ていたとしたら、上から見ていることになるよね。

同じ打ち上げ花火でも、実は自分の立ち位置によって、見ている方向は違うってこと。

まさに、物の見方は一つではない、という想像がそのまま描かれている。

 

 

じゃあ二つ目はというと、それは言葉から想像されたものとは違った時。これはあるあるだと思うんだけど、いい意味で裏切られた時って言えると思う。

石田衣良の『愛がいない部屋』は、タイトルだけ見れば、悲しさと寂しさの漂うものになるだろう。

でも本当にそうなのだろうか。

正直、読んで、と言いたいところなのだが、結論からすると実は、タイトルからの想像は不正解だ。

あらすじをざっくり言うとDV夫とくらす子持ちママの話。そんな人には言えない話を、ご近所のおばあさんにぽつりぽつりと話していく。なんとも静かな話なのだ。

でも実はこの短編小説は、最後は希望の光を持って終わる。

いつものロビーがまぶしい光にあふれていた。この光が自分にはずっと見えなかったのだ。きっと光は世界にではなく、人の心にあるのだろう。

 

きっと主人公にとって、「愛」のある部屋ではなかった。「愛」がいるとも感じられなかった。だからずっとその生活に光が見えなかった。それは誰かに、夫という物体に「愛」というものを現実として求めていたのだろう。

でも本当は、「愛」なんてやっぱり形はなくて、それを見つけられるかどうかは、自分の心次第だというところに気が付いたのだ。光が世界ではなく「人の心に」あるのだろう、という主人公の最後の気持ちは、まさにそれを言っていると思う。

現実にあるいは、夢見ていた「愛」という形から解放された瞬間だったんではないらだろうか。

 

と、書ききったところで、あとがき読んだら、名越先生もあとがきで似たようなこと書いてた。

私、盗作疑惑になりそう。笑

 

おわりに

夏目漱石は英語の「LOVE」を、「月が綺麗ですね」と訳したという話はあまりにも有名ですね。明治以前、「愛」という日本語はなかった。

 

夏目漱石は言葉の本質をついる。

それが「愛」という訳し方にとてもよく表れていると思っている。「愛」というのがいかに抽象的なのか、そして「愛している」などと動的な言葉で言わなくとも、「月が綺麗ですね」という会話で十分伝わるでしょ?ということだと思うのだ。

 

愛だけじゃない、夢もそうだと思う。

抽象的がゆえに膨らんで、偶像虚像ができあがってしまう。するとそこに飲み込まれてしまう。本質は言葉から生まれる「形」なのではなく、その言葉をどう汲み取るのかとか、言ってみれば言葉の「中身」が重要だということ。

 

今日はそんなことを考えました、という話。

実は今日は1時間という時間制限付きで、記事を書いております。残念ながら10分オーバー。といことで、今日はこの辺で。

石田衣良の『愛がいない部屋』の読書感想文は、せっかくなので、もうちょっと他の短編集も踏まえた形でまたあげまする。

 

それではまたにゃん。