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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

息をするのを忘れる苦しさ

こんばんは。にゃんちーです。

今日は自分の気分とちょっとミスマッチした本を選んでしまいました・・・。いや、読んでいるんだから、分かっているんです。分かっていたんですけど、こんなにしんどかったっけなって。

 

さっそく。

 

石に泳ぐ魚』 柳美里

 

詳細リンクを貼る前に少し。実はこの小説、裁判になり出版自体が差し止めになっています。小説というある意味、表現の自由であって芸術ともいわれる分野での出来事です。原版はおそらくお目にかかることはないでしょう。私の手元にあるものは、裁判にあたって改訂されたものです。原版が気になる。

ということで、あらすじとともに、裁判記録の結果を新潮社から拝借。

新潮

 

本のページが見当たらないので、ごめんなさい。これで。

 

競馬に狂った父親。次々と男を取り換える母親。危うい家族の風景の中に、劇作家 秀香の孤独は屹立していた。韓国での会見では仲介者の裏切りにあい、日本の演出家の彼女の作品を踏みにじる。柿の木の男 のぬくもりと、美大受験生の里花(リファ)の奔放さだけが、そばにあった。まっすぐな孤独は、いつも何かに挑みかかり、深く傷つき、漂いさまよう。

 

文庫本の裏書から、ざっくりなあらすじ。

 

在日韓国人が題材として取り扱われています。

 

柳美里は元は劇作家です。だからでしょうか・・・長編処女作にあたるこの作品は、話の舞台がすっとぶところがあります。まるで舞台が暗転して(照明が暗くなって)、舞台セットがガラッと変わったかのような感じで。それが活字となると、物語の状況把握に一苦労することも間々あります。

 

これを読んだ当時も、読み返した今もですけど、食欲が失せるほど、ずっしりと、そしてべったりと喉の奥に何かがへばりついたような感覚になりました。

好き嫌いが分かれるだろうにゃー。私は好きでも嫌いでもないです。

 

でもこの本の書き出しと、最後が、とても好きなんです。

落とした。 

 

落ちた、でもなく、落とした。

微妙なニュアンスの違いですが、落ちたは偶然あるいは予期せずしてというところがありますが、落としたというのは落とすという行為に意思が伴っているような気がします。

例えば、鍵を落とした、とか言いますが、それとはまた違う。この場合の落としたは、カバンから鍵が落ちた、とか、鍵を失くした、に近いと思うんです。

これを、なんの脈絡もなく、冒頭から、落とした。と動詞だけで言われたら…。私には、主人公の意思、もしかしたらこの物語の展開を予感させているかのように見えました。

これが演劇なら主人公がカバンを落として、はい終わりなんでしょうけど、活字はそうはいかない。そこが巧いなと思ったんです。決して劇中の頭の台詞で、「落とした」とか言わないでしょ、きっと。

 

柳美里の文章は、決して軽やかなものではありません。長編と言いながら、そう大した文量でもないこの本ですが、辞書でも読んだのかと思うくらい疲れました。

正直、その感想文を書いていること自体、私、ぐったりしています。

もっと体力ある時に書くんだったな…。ちなみに辞書、読んだことないけど。笑

昨日の谷崎潤一郎、とまではいかないにしても、純文学っぽい文章で美しい。

美しいというよりもひどく的確で簡潔です。それが美しいのですが。

 

物語の進行は、鮎が川登りをするように、じわじわとしたものです。一方で、暴力的、性的描写は目を覆いたくなる過激な場面がちょこちょことあります。文章の書き方も相まって、だいぶ刺激強めです…はい。文章が全体的に綺麗なぶん、醜さとか汚さみたいな負の部分がより際立っているようで印象的です。

 

設定が在日だからなのかなあ… ところどころに妙なカタカナ表記があります。脳内変換で読めるのですが、気になるっちゃあ、気になる。キイとかタクシイとか。言葉の細部に気を使っていると文章なので、何か意図があるような気もするのですが。うーん…。

 

とかく感想は、blogのタイトル通りで、綺麗な文章を読んでいるにもかかわらず、呼吸をするのを忘れるような苦しさ。少しずつ、ほんの少しずつ、首を絞めつけられていくような厭らしい圧迫感。その先にあるものは、絶望と恐悦。

恐悦至極の、恐悦です。

相手に自分の喜びを伝える際にかしこまって言う言葉です。

 

ネタバレになりますが…

 

韓国にいる友人を助けるべくして韓国へ戻った里花(リファ)。ところが、友人が虜となったその新興宗教に里花がどっぷりつかってしまった。秀香は里花を連れ戻そうと韓国へ向かいます。

里花は「行こうよ」と、秀香を誘います。秀香はその誘いの手をとるも、動けない。

新興宗教という扉の前で、里花と秀香は、別れることになる。

 

この時の里花の表情を描いた文章が素敵なんです。

彼女の顔の中に棲む魚が嘲笑うように跳ねあがった。 

 

石に泳ぐ魚』というのは、まさにこれのことです。

里花の顔には、大きな腫瘍があります。これを、魚と表現したんです。顔を石に見立てて、表情によっては動くその腫瘍を、泳ぐ魚と。腫瘍を切除することはできるかもしれない。でもその魚は、石から逃げ出すことはできない。化石のように固まってもいないけれど、そこから先へは動くことができないのです。

 

そして最後に引用した文章は、その魚が跳ね上がるほど、里花が笑顔だったことが分かります。それを見た秀香、これが結びの文章になりますが、

私はいつまでも盲のようにその白い光景を眺め、聾(おし)のように障子戸が閉まる幽かな音に耳を澄ましていた。 

 

盲のように、つまり全盲であり目が見えない。にもかかわらず白い光景というのは光をさしていると思います。視力がなくても光は感じられる。

おしと読ませていますが、聾(ろう)とは、耳が聞こえないことです。聞こえないから幽かな音、この幽かなという漢字は、わずかなという意味ではなく、ぼんやりとという意味の漢字です。

 

里花との別離が、連れ戻せなかったことに対する、秀香の絶望感が伝わってくると思います。その絶望の中でさえ、必死に探そうとする喜びも見て取れる。これを私は、恐悦だと感じたんです。どうせ絶望を味わうのであれば、好きな人の手によるものであってほしい。そうであれば自分は嬉しく思うのだと、へりくだってしまう感じが。無理にでもそう思わないとやっていられない感じが。

どちらかというと、本当に心からそう思って喜びを謙遜して言うのではなく、ほんの少しの皮肉を込めていう、恐悦です。

 

自分の所在のなさと、無力感、そして孤独の3点セットで絶望の出来上がりです。

それでもなお、生きる希望(安っぽくて嫌いなんだけどさ、この言葉)を見出したがる様は、なんて人間らしいんだろうと思いました。

 

人って、こうやって、何かに縋って(すがって)生きていく他ないのかもしれません。

生きてくうえで、孤独はつきものだからにゃー。

 

 

我ながら、よくもまあ、毎日感想文を書けるなと思います。

アウトプットが早くて、インプットが全く間に合っていません!んにゃー。

本日はこれにて。最後までヘビー級にお付き合いいただき、ありがとにゃん。

 

またにゃー。